どうもこんにちは!
阿見町議会議員の 筧田 聡 です。
先日、身近なご夫婦から「答えの出ない話」を聴かせてもらいました。許可をいただいたので、細部を伏せて再構成してお届けします。
これは町政の話ではありません。一人の大人として、いっしょに考えたい話です。
夫婦で、答えが割れた
夫はこう言います。
「叩かれて痛かった、という体験が、人を叩かないブレーキになると思う。痛みを知らないまま育つほうが怖い」
妻はこう返します。
「親に叩かれた子は『叩いていいんだ』と学んでしまう。暴力は教育から外すべき。年齢が来れば、言葉で伝わる」
静かで、けれど張りつめた対話だったそうです。逆の組み合わせのご夫婦も、きっといるでしょう。
聴いていて、途中で相づちが止まりました。二人は、同じものを恐れていました。夫が恐れるのは、他人の痛みを想像できない人になること。妻が恐れるのは、力で人を従わせる人になること。向いている先は同じで、割れているのは手段だけでした。
「制裁」と「壁」は、同じ力ではない
対話を整理すると、ひとつの切り分けが浮かびます。
叩く・つねるは「制裁」です。痛みを与えて行動を変えさせようとする力。国の資料には、体罰で子どもの行動が変わったとしても、それは叩かれた恐怖で動いた姿であって、自分で考えて動いた姿ではない、という趣旨の整理があります(体罰等によらない子育てのために・こども家庭庁)。痛みを与えれば思いやりが育つ、とは限らないわけです。
一方、車道へ飛び出しそうな子の腕をつかむ。暴れる身体を抱え込む。これは「壁」です。越えさせないところまでで止まり、痛めつける側には出ない力。
制裁と壁は、同じ「身体に触れる力」でも、目的も終わり方も違う。ここまでは、二人ともうなずいていました。
意外だったのは、そのあとです。かつて厳しい訓練を掲げた施設で訓練生が命を落とした事件が話題に出たとき、口を開いたのは、「暴力は教育から外すべき」と言っていた妻のほうでした。
「あんな指導は、もうありえない。ただ、命に関わる瞬間に一発叩く、ということはあるかもしれない」
2020年4月から、親による体罰は法律で禁止されています。それでも、暴力を一番遠ざけたい人の口から「一発」が出る。境目は夫婦のあいだにあるのではなく、一人の親の内側にあるのだと思いました。腕をつかんで止めるのと、一発叩くのとの間に、線はある。ただその線は、「止めるため」と「分からせるため」が同じ一瞬に混ざるところに引かれていて、二人の話を聴いた私にも、まだ引き切れていません。
あなたにも、こんな一瞬はないでしょうか。
駐車場で走り出した子の腕を反射でつかんだあと、指に力が残っている。
弟を突き飛ばした上の子の肩を押さえた手が、白くなっている。
門限を過ぎて玄関が開いた夜、袖をつかんだまま、言葉が出てこない。
止めるためにつかんだ手に、分からせたい気持ちが乗る。あの一秒の中に、線があるのだと思います。
痛みの教室は、どこにあるのか
では、自分の身で受け取る痛みは、どこで学ぶのでしょう。
柔道で投げられる。試合に負けて、ベンチでうつむく。自転車で転んで、一人で起き上がる。土手で膝を擦りむく。ルールや自然という、感情を持たない相手から受け取る痛みです。
痛みを与える役を人の腕力に預けたところに、法律は線を引いたのだと受け止めています。だから家庭が担うのは「越えさせない」ところまでで、そこから先はルールのある場に渡す。
消えたのは「安全に負けられる場所」
もうひとつ、この対話が照らしたことがあります。
かつては、遊び場や、年上の子との摩擦や、地域の大人の目が、家庭の外にありました。安全への配慮、生活時間の変化、地域のつながりの薄まり——理由はひとつではないと思います。ただ結果として、外にあった役割まで家庭の中に寄ってきている面は、あるのではないでしょうか。
泥だらけで負けて帰ってきた子の話を、夕飯の席で聞いてやる。痛みは外で、言葉は家で。そういう分担が成り立つ町なら、この夫婦の対話も、少し違う形になっていたのかもしれません。
子どもが安全に負けられる場所は、あなたのまちのどこに残っているでしょうか。そして、誰でも通える場になっているでしょうか。
同じ問いをご家庭で話したことがあれば、公開できる範囲で聞かせてください。
ご覧いただきありがとうございました。
阿見町の筧田がお送りしました。











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