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零戦は、なぜ灰色から深い緑色になったのか

どうもこんにちは! 阿見観光ガイド 幹事で、阿見町議会議員の 筧田 聡 かけひだ さとしです!

予科練平和記念館の屋外には、零戦の実物大模型が展示されています。本日の予科練戦没者慰霊祭前の時間に、この機体を案内していたとき、参加者からこんな質問をいただきました。

 

「なんで灰色から深い緑色に変わったの?」

ごもっともである。記念館の模型は灰色だが、写真や映画で見る零戦といえば、たいてい深い緑色をまとっている。同じ零戦なのに色が違う。言われてみれば不思議だ。そして正直に告白すると、案内していた私も、その場ではきちんと答えられなかった。

これはいかん、というわけで調べてみた。すると零戦の塗装の変化には、ただの「色替え」では片づけられない、戦争そのものの移り変わりが映り込んでいた。

そもそも、あの灰色は何色なのか

記念館の模型がまとっている灰色は、初期の零戦の色である。正式には「明灰白色(J3系統)」と呼ばれ、当時の規定色ではやや明るめの灰白色が指定されていた。現在の研究や模型界での再現では、わずかに灰緑がかったニュアンスを持つグレーとして表現されることが多い色だ。

ここで面白いのが、零戦ファンのあいだで長く語られてきた「飴色論争」だ。当時の技術資料(空技報0266号「零式艦戦迷彩に関する研究」)には「現用零式艦戦用塗色ハJ3(灰色)ノ稍飴色ガカリタルモノナルモ光沢ヲ有スル」といった記述があり、この「稍飴色ガカリタル」という一文から、いわゆる飴色論争が始まった。

現在有力な見方では、この飴色がかった見た目は、塗料そのものの色ではなく、バインダーやニス成分の黄変、紫外線や潮風による経年変化の影響が大きいとされている。新品時の零戦は比較的素直な明るいグレー(人の目にはごく淡い灰緑を帯びたグレー)で、運用を重ねるうちに少しずつ黄味・飴色寄りに変わっていった、という理解が現在の主流に近いだろう。

メーカーの違いや運用環境によって個体差も大きいので、「この色こそが絶対の正解」とは言いにくい。あえてまとめるなら、「暖色のニュアンスを含む、やや灰緑寄りにも見える明灰白色」といった幅のあるイメージで捉えておくのが、実態に近いかもしれない。

 

なぜ最初はこの色だったのか

「灰色っぽい色だったのは、不時着したときに見つけやすいようにするため」——こういう説明をよく見かけるが、少なくとも現在公開されている海軍の一次資料では、この目的をはっきり書いたものは見当たらない。

一方で、迷彩試験の報告などには「上空からの視認性を低下させること」「雲や海面に溶け込ませること」といった趣旨が明記されている。したがって、灰色系の塗装は「海や空に紛れやすい色として採用された」と理解するのが、史料に即した見方に近いだろう。攻めに出る飛行機にとって、敵機や敵艦から発見されにくいことが何より重要だったのだ。

 

緑色への転換——よくある誤解

では、なぜ緑色に変わったのか。

ここでよく語られるのが「アメリカ軍に零戦が鹵獲(ろかく=戦場で敵の兵器などを奪い取ること)されて手の内がバレたから、慌てて迷彩を施した」という筋書きだ。アリューシャン列島で不時着した零戦、いわゆる「アクタン・ゼロ」がアメリカに回収されたのが昭和17年6月。これがきっかけだ、という話である。

ところが、調べてみるとこの説明は単純すぎる。零戦の迷彩についての本格的な試験・研究は、開戦直後から航空技術廠で進められており、その成果は昭和17年2月付の空技報0266号「零式艦戦迷彩に関する研究」としてまとめられている。少なくともこの段階で、海軍はすでに「零戦をどう迷彩するか」をテーマに検討を始めていたわけだ。

つまり、開戦前後の時点で海軍は迷彩の必要性を認識しており、さらに戦局の悪化やアメリカ軍の一撃離脱戦法の台頭によって、その緊急性が増していったと考えられる。アクタン・ゼロの鹵獲も、そうした流れのなかで迷彩化を後押しした一因にはなり得るが、「それだけがきっかけ」と言い切るのは現在の研究とは合わない。

 

塗り替えはどう広がったか

転換の流れは、実証度の高い形でたどることができる。

まず昭和17年後半、南太平洋の前線で、現地の部隊が応急的に上面迷彩を施し始める。手元の塗料で機体の上面を塗り足す、いわば現場発の工夫だった。

続いて昭和18年春〜初夏ごろからは、三菱・中島とも工場から出荷される零戦に、上面濃緑色・下面明灰色という二色塗装が施されている例が、写真に確認される。昭和19年以降になると、この塗り分けはほぼ全機に定着し、「零戦といえば緑」とイメージされる姿が一般的になっていった。

 

なぜ「上面だけ」緑色なのか

ここで気づきたいのが、緑色は機体の上面だけで、下面は明るい灰色のままだということ。これは「カウンターシェーディング」と呼ばれる、当時の航空迷彩理論に基づいた塗り分けだ。零戦だけでなく、英・独・米の戦闘機や爆撃機でも、上面を濃色・下面を淡色とする組み合わせは広く用いられていた。

上空から見下ろされたときには、ジャングルや海の濃い色に溶け込むよう、上面を濃緑色にする。逆に地上や海上から見上げられたときには、明るい空に紛れるよう、下面を明るい灰色にしておく。上下で塗り分けることで、どの方向から見られても発見されにくくするわけだ。

急降下で上から襲ってくる攻撃が増えた戦況では、この「上面の迷彩」の意味が一気に大きくなった。

 

おまけ——三菱製と中島製の見分け方

ガイド仲間に役立ちそうな小ネタも拾っておく。零戦は三菱と中島の二社で製造されたが、塗装にも個性が出る。

色味でいうと、三菱は青みの強い濃緑、中島は黄みの混じった濃緑になりやすい。さらに胴体側面の塗り分け線を見ると、三菱は水平の直線、中島は後方へ向かって斜めに上がっていく。胴体の日の丸の白い縁取りも、あくまで「傾向」としての手がかりになる。一般には、三菱製は白縁なしの例が多く、中島製はやや幅広の白縁を持つ例が目立つが、両社とも例外があり、白縁の有無だけで製造元を断定することはできない。

ただし戦争後期の中島製は、塗装の簡略化と品質の低下が著しい。時期による変化も頭に入れておく必要がある。

 

色が映していたもの

こうして並べてみると、ひとつの見方が浮かんでくる。

「明灰白色(新品時は灰緑がかったグレー、運用とともに暖色寄りに変質)」から「上面濃緑色・下面明灰の二色迷彩」へ——この塗装の変化は、零戦の使われ方が、制空権を取りにいく攻めの運用から、基地を守り迎え撃つ守りの運用へと、重心を移していった歴史と歩調を合わせている。

海と空に紛れて攻めに出ていた灰色の零戦が、やがて地に伏せて身を隠す緑の零戦になっていく。塗装の変化は、戦況の変化をそのまま映していたのだ。

記念館に展示されている灰色の零戦は、まだ攻勢にあった時代の姿である。その隣に、のちの緑色を思い浮かべてみてほしい。零戦の塗装の移り変わりのなかに、戦争のたどった道のりが、静かに刻まれている。

次にあの模型の前で同じ質問をいただいたら、今度はちゃんと答えられそうだ。

 

阿見観光ガイド 幹事/阿見町議会議員 筧田 聡 かけひだ さとしでした!

 

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筧田 聡 ❀ 阿見町
NPO法人地域知見LIVE 理事長, ㈱Key-Performance 創業・代表取締役, 起業茶屋® 主催, 弓道弐段, サザン好き, 茨城県観光マイスターS級 認定「大きな愛、たくさんの笑顔、熱い情熱をもって、互いの人生を輝かせるために働き続ける!」