こんにちは!
簡潔屋の 筧田 聡 です。ご覧いただき、ありがとうございます!
今回は、ぼくが中学3年の時の話。
よく乾いた体育祭の日のこと。
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中3の体育祭のプログラムには、100m走があった。
小学校の頃は短距離走でいつも1番だったが、中学校に入ってからは、同学年の友達にどんどん負けるようになっていた。
中学最後の体育祭。
「ここでは勝ちたい。」
そう思って、毎日走る練習をしていた。
中3で走る練習をするとは、今考えると熱いな。。。(他人事。)
当日。
グランドがよく乾いていたため、スタートの際に転ぶ人が続出していた。
自分の番がきて、スタートで滑らないように注意深く走り出した。
上手く出だせたあとは、気合を入れて精一杯脚を動かした。
後半、左右を見ると、1番だったことが分かった。
よしこのまま行くぞ!とさらに気合が入った。
しかし、ここで想いを込めすぎてしまった。
ゴールの直前で“何故か”コケてしまったのだ。
何故かではない。力み過ぎていた。
最後の5mというところで、前傾になりすぎて脚がついていけなかったようだ。
この日、両親はゴールの瞬間をカメラで押さえようとしてゴール前に構えていた。
そしてシャッターを切っていた。
のちに、その写真を確認すると、そこにぼくは写っていなかった。
また、当時付き合っていた彼女が、近くで見ていた。
今想い返すと、これは人生の一大イベントだった。。。笑
だから今回ブログに描いた。
ここから学んだことが3つあるからだ。
① 自分の羞恥心に気がついたこと
小学校中盤以降、恥ずかしさなんてあまり感じてこなかった。
でも、この日は、とても恥ずかしかった。
救護のところで両膝両肘に白いガーゼを貼られて、一日中、みんなに笑われていた様に感じた。
② 転んでも後退はしていないこと
ライバルには離されてゴールして行くけど、
後ろを見るとこれまで走ってきた距離はそこにあることを知った。
この記憶がなぜか強く残っている。
また同時に、「あと少し5m」
前方の距離感も強烈に記憶している。
③ みんなの記憶には、ほとんど残っていないこと
飲み会などで同級生に転んだ話をすると、
「そんなことあったの?」となることがほとんどで、
ホッとしているというか、覚えていないんだなーって。
みんな自分のことで精一杯の記憶なんだろう。
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つまりこの3つのことから、
転ぶことは、精神的な意味においては、あまり怖くはないと理解した。
これは徒競走に限った話ではないだろう。
やってしまったできごと、全般に適応できると考えている。
ただ、精神的には怖くはないけれど、
今でも左足の膝小僧には、その傷跡が残っている。
その傷跡はぼくにとって、転ぶことはあまり怖くないと応援してくれている。
見るたびに、そう感じさせてくれている。