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切り取って叩く。その片棒を、担いでいないか

「切り取りと炎上」「切り取って叩く。その片棒を、担いでいないか」「叩く前に、三つだけ確かめる」の文字と、ハサミで切り取られた吹き出し・スマートフォンから飛び出す吹き出しのイラスト

 

どうもこんにちは!
阿見町議会議員の 筧田かけひだ 聡さとし です。

今日は町の話から離れる。国政の是非を論じるのではない。切り取られ方だけを見る。一人の、いつ叩かれる側に回ってもおかしくない人間として書く。

 

私の原点

私が政治を志したきっかけは、麻生総理をめぐる報道だった。漢字の読み違いを連日取り上げ、カップ麺の値段を聞かれて答えた額を笑う。政策の中身より「首相の失点」が毎晩流れていた。

麻生さんを守りたかったのではない。こんな世の中で良いわけがない、と思った。切り取って笑いを取り、叩かれる姿を見て笑う。それが通る社会は、切り取る側のふざけた輩がのさばる社会だ。のさばらせない。そして、乗っかる人がいなければ、輩はのさばれない。それが私の原点である。

あれから何年たっても、同じことが繰り返されている。

 

現場を知れば、笑う話ではない

10月16日の参議院予算委員会で、高市総理が憲法の「前文」を「まえぶん」と読んだ。SNSでは漢字の読み方をめぐる批判が広がった。だが契約書などの現場では「全文」と聞き分けるために「まえぶん」と読む用法がある。化学を「ばけがく」と言うのと同じ理屈だ。読み方に意見があるのは自由だ。だが、一語の読みから「漢字が読めない」と人物ごと断じるのは、話が飛びすぎている。

立場が違っても同じことが起きる。立憲民主党の野田代表が2024年9月、代表に選ばれた場で語った「弱い人を助けるための政治はもう終わり」。翌年1月、この一文だけを載せた画像が「もう政治家やめてくれ」の言葉と一緒にXで広がり、表示は270万回を超えた。実際には、すぐ後に「弱い人が生まれない社会をつくるということであります」と続けている。助けるのをやめるのではない。助けが要る人を生まない社会へ、という話だ。叩かれた側がどの党であれ、構図は同じである。

2009年、ローマでの会見でもうろうとした中川昭一財務大臣は「酔っ払い大臣」として繰り返し流され、数日で辞任した。本人は風邪薬の影響で、酒に酔っていたのではないと説明していた。その説明は、ほとんど届かなかった。

テレビで「不適切な発言がありました」と頭を下げる場面も、何度見ただろう。米ソの核開発競争の過熱ぶりを強い言葉で形容したコメントに、番組はどの発言かさえ示さずに謝罪したことがある。言葉が強かったのは確かだ。だが、何を伝えたかったのかを誰も聞かなかった。

 

数字は本当。中身は違う

7月4日、高市総理が「日本ジュエリーベストドレッサー賞」の特別賞を受け、総額2600万円と報じられた真珠のイヤリングとネックレスを着けて登壇した。「国会に出ずに宝石で着飾っている」。批判が集まった。

そのジュエリーは、主催者が国内の企業から当日限りで借り、式の後に全て返している。総理自身も当日のXで「借りて着けた」と説明していた。それでも「副賞として贈られた」と書いた学生メディアが翌日に謝罪して記事を消すまで、「贈与ではないか」という話が広がった。

2600万円という数字は本当だ。だが「2600万円の宝石を贈られた」という話は、借り物を返した人への言葉ではない。国会に出ない姿勢への批判は、それとは別に正面から問えばいい。混ぜて叩けば、数字だけが走り、事情は置き去りになる。

 

罪の有無まで、空気で決めるのか

兵庫の斎藤知事を「犯罪者」と呼ぶ声も消えない。だが選挙をめぐる買収の疑いを含む7件の告訴・告発も、告発者の情報漏えい問題も、知事は不起訴となった。刑事責任は問われなかった、ということだ。調査報告で認定されたパワハラなどや、政治的な責任まで消えるわけではない。それでも、罪の有無を空気で決めてよいはずがない。

疑われた側に「やっていないなら証明しろ」と迫る声も、いまは当たり前のように飛んでくる。だが、無かったことは証明のしようがない。あった証拠は一つ出せば済む。無かった証拠は、どれだけ探しても「まだ探していない場所がある」と言われて終わる。悪魔の証明と呼ばれる。だから刑事裁判では、証明する責任は疑う側にあり、有罪が確定するまでその人は無罪として扱われる。推定無罪の原則だ。ネットは法廷ではない。だが、法廷がこの原則に辿り着いたのは、そうしなければ無実の人が潰れるからだ。潰す力は、法廷の外のほうが強い。そこに、この原則はない。疑われた時点で裁かれ、晴れても元には戻らない。

そして、もう一つ。6月3日の県の定例会見で、知事に向かって「人殺しやんけお前は」と発言したフリー記者が、名誉毀損の疑いで9月14日付で書類送検されていた。広く報じられたのは10月20日。送検から1か月以上たっていた。神戸新聞が捜査関係者への取材で掴んだもので、県警の発表ではない。疑惑も、不起訴も、送検も。誰の話であれ、同じ物差しで伝えてほしい。

構図ははっきりしている。攻撃する側は、いつでも有利だ。言うのは一瞬で、元手は要らず、外れても誰も責任を取らない。攻撃された側は、多かれ少なかれ必ず損をする。信用も、時間も、ときに仕事も削られる。そして晴れたところで、失ったものはほとんど戻らない。この傾きを、社会全体で踏まえておくべきだと私は考えている。踏まえていれば、石を投げる手は、少しは重くなる。

 

一言で片づける

フランスで広がっているデモは、教員の不足に怒った高校生から始まり、10月17日には内務省の推計で約55万人が参加し、略奪や放火、市庁舎の襲撃まで起きて2000人を超える逮捕者が出た。参加者には移民が多いと伝える論評もある。

「学生デモ」と一言で呼ぶのも、「移民の暴動」と一言で呼ぶのも、現場の一部しか見ていない点では同じだ。

言葉の区別を混ぜた問いも、前提の切り取りだ。愛子さまが天皇になる「女性天皇」と、母方の血筋で継ぐ「女系天皇」は別の話なのに、一緒くたにして賛否を問う。問いの立て方を間違えれば、答えはどれも間違う。

 

阿見にもあった

切り取りは遠い話ではない。阿見町で市制の話が進んでいたころ、「市になると税金が上がる」という声がじわっと広がっていた。町が市に変わることで住民税や固定資産税の税率が自動で変わる仕組みはない。負担が増える道筋があるなら、それは別に説明されるべき話だ。町の有識者会議でも、市になるとお金がかかることに住民が敏感になっているという指摘が出ていた。不安は、事実より速く走る。

 

乗っかった人へ

私が怒っているのは、批判そのものではない。現場を踏まえずに切り取り、反射で叩き、その積み重ねが国の判断も、目の前の町の判断も歪めていくことだ。

わかっていて叩く人に、この文章は届かないだろう。ここから先は、知らずに乗ってしまった人へ書く。

乗っかった人に言いたい。恥ずかしくないか。昨日はあの人を叩き、今日はこの人を叩く。節操がない。自分で確かめもせず、誰かの怒りを借りて石を投げる。その石が、誰を黙らせているのか。誰にコストを掛けさせているか。

20年後の町を想像しない声に、私は何度も出会ってきた。次の世代に寄り添う言葉が、そこにはない。数の多い声が通りやすい仕組みの中では、それだけで場が止まる。言い返すのも面倒で、正直、私も飲み込んでしまうときはある。怖いのではない。呆れている。

会社や家庭でもあると思う。反射的な発言が一つ減るだけで話が前に進む場面を想像できないか。反射で叩く人が静かになるだけで、話はずいぶん進む。それは一人の力ではできない。乗らない人が一人でも多く増えてくれることを望んでいる。

 

叩く前に、三つだけ

一、その一言の前後を見たか。
二、その言葉は、現場ではどう使われているか。
三、その怒りは自分のものか。誰かの借り物ではないか。

三つとも通ってから発言するなら、それは反射ではなく批判だ。そういう批判なら、いくらでも受ける。

「これも切り取りだった」という例があれば、ぜひ教えてほしい。
ご意見・激励等ございましたら、気兼ねなくおっしゃってください!

ご覧いただきありがとうございました。
阿見町の筧田がお送りしました。

 

参考資料

制度・司法

報道と発言

フランス

阿見町

 

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