大学生の頃の自分は “消極的優秀” で
人から与えられた問題や、人から任された場には、その都度、必要な行動をしてきたつもり。
勉強も恋愛も課外活動も人並みにはできていたけれど、自ら進んで問題を見つけたり、自ら進んで場をつくってきたわけではない。
そんな私がたどり着いた言葉が『消極的優秀』というもの。
これまで出会ってきた日本人(特に大人)は「理解力・作業力・解決力・丁寧さ・責任」を持っていると感じていた。
そこには『優秀』という言葉がしっくりときた。
消極的とは、“(行動はするかもしれないけれど)自分から進んでは行動しない”ということ。
だから自分は、日本人として、「消極的優秀なんじゃないかなー」と勝手に思っていた。
毎日日記を書いていたので
消極的優秀について色々なことを考えていた。
例えば、自ら生み出せないということ。
どういうことかというと、だれかに依存し続けなければ進むことができないということ。
大学の講義を受けなければ学ぶことができない
良い本がなければ考えることができない
良い人に教わらなければ気がつくことができない
仕事を与えられなければ飯が食えない
誰かに与えてもらえなければ活動できない。
それは自分の日々や人生に希望が持てないということと同じ。
これでは『生きている』のではなくただ『存在している』だけに思えた。
消極的優秀のままじゃ、面白くないんじゃないか?
面白くさせてもらっている「だけ」なのは、なんか自分の人生とは違うんじゃないか、と感じた。
消極的優秀と対となる言葉はなんだろう
それが『積極的優秀』。
積極的とは自ら進んで行動すること。
自ら進んで問題を見つけ、自ら場をつくっていくということ。
特に大学4年生の頃は、消極的優秀と積極的優秀の違いが、人生にどういう差を生むのかについて考えていた。
その結果、積極的優秀の場合には、なにかと選べるということが分かった。
やりたいことができる。冒険ができる。
だから自信が付く、能力が高まる、可能性が持てる。
学ぶのも
考えるのも
気がつくのも
仕事も、飯も
好きなときに、好きな場所で、好きな仲間と生きることができる。
それはひとつの希望になったということ。
そして更に積極的になり好循環になる。
子供の頃の自分は『積極的』で
いま思えば、誰に言われなくてもよく気が付き、誰に言われなくても行動していた子供の頃は、積極的と言わざるを得ない。
彼は自信と希望でエネルギーがあふれていた。
しかし、優秀かと聞かれればそれは違うと思う。
大人(主に親)がほっといたら、子供の私は死んでいただろう。
そこには責任も丁寧さや加減もないだろう。
もし子供の頃の積極的な部分を今の自分が思い出すことができれば、消極的優秀な自分は、積極的優秀になれるはず。
大学生の私は、父親と母親、祖父母、兄に子供の頃の話をよく聴くことにした。
すると彼らはよく覚えている。
忘れられていた「得意だったこと」「褒められたこと」「人の役にたったこと」を思い出させてくれた。
そしてなにより、「自分の好きなこと」「しっくりきていたこと」を思い出させてくれたのだ。
結果、人生が豊かに
以来、山手線を歩く会(2011)に始まり、デジタルデトックスin筑波山、休日デトックス(2015)に至るまで、少しずつ積極的優秀を鍛えてきたつもりだ。
結果として、やりたいことができてるし、傍から失敗だと言われることもあるが自分は成功に向かっていると感じる。
そして最も大きいのは、満たされているということ。
正確には足りないと感じることがかなり減った。
3年も積極的に行動していれば、それがくせになって、自分でできるとまず思うようになる。
引っ越しも仕事も出会いも旅も。必要があればお金を払って人に手伝ってもらうような感じ。
想像して欲しい。
積極的優秀な自分というが、1秒後のあなただとしたら。